2025-08-05 12:25:09 配信
戦後80年「陸軍少年通信兵学校」の記憶 魚雷攻撃に散った先輩の無念

元少年通信兵 大口光威さん
「通信機というのがあって」
96歳になった今も、大口光威さんにはその学校の記憶が鮮明に残っています。
大口光威さん
「新潟に行くとは夢にも思わなかった。国を守るため、親兄弟を守るために自分が犠牲にならなきゃだめだって」
1943年、新潟市から30キロほど離れた山の麓に、村松陸軍少年通信兵学校は開校しました。
無線や暗号文を専門とする少年通信兵になるべく、10代半ばの少年たちが全国から集まりました。その訓練は厳しいものでした。
大口光威さん
「脱走する連中がいるの。そうすると牢屋に入れられちゃうんだ」
過酷な訓練も「お国のため」と思いながら懸命に学ぶ日々…。
しかし、ほどなくして戦況は悪化。1944年11月、大口さんの1期先輩にあたる315人がフィリピン方面に出兵しました。
大口光威さん
「中秋の名月を鑑賞する会で全生徒がご飯を食べて軍歌を歌って、それが最後の別れだった」
少年たちを乗せた船のうち2隻は戦地に着く前に撃沈。116人の命が海に消えました。
講演する大口さん(当時86)
「五島列島沖に出た途端に敵の潜水艦の魚雷攻撃によってあえなく沈んでしまう。1人また1人と、力が尽きるとともに黙って海底に沈んでしまう」
出兵前に終戦となり、戦地に赴くことはなかった大口さんは、語り部として先輩たちの無念を伝えてきました。
大口光威さん
「(先輩は)ものすごく苦しい思いをして戦争を戦ったんだ。絶対に戦争は反対。やっていいものではない」
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